入梅を迎える頃になりました、皆さま、いかがお過ごしでしょうか。れもんです。
以前ほどではないけれども、通勤時、少しは人波が戻ってきたな、と感じるこの頃です。先週、そう思いながらいつも通り電車に乗っていると、ふと悲しみに暮れていたあの頃が、まるで薄膜をはったような向こうの出来事になってしまっていることに気づき、はっとしてしまいました。主人を亡くした当時は、むしろそうした雑踏のほうが膜に包まれた向こうの出来事だったのに・・・
最初の頃は、本当に、悲しめなかった。ただ、悲しみとは訪れるもので、ふとしたきっかけで涙が出てくる。雑踏のなかを、ひとり冷めている自分にも、思いもよらず涙が流れそうになる瞬間がありました。そういうときが、当初の自分にとって、リアルな時間だったように思います。
悲しみにのまれてしまって大丈夫でしょうか、とおっしゃられる方が時折おられます。悲しむというのは意外に難しいことで、でも一旦悲しむとその感情をとめることもなかなか難しい。ただ、悲しむことで主人との別れを覚悟する準備をしていたように思います。
訪れた悲しみの時間は、長かったのか短かったのか、今思えば、時間の感覚はなくなっています。多分、人によって期間もまちまちでしょう。これだけは言えるのは、悲しみにのまれていたあの頃は、今と比べて、主人ととても密度の高い時間を過ごしていたということです。
もう、膜の向こうになってしまった主人とのこと。生前の主人とのことは、膜の向こうの、ぼやけているけれどもどこか温かい陽だまりのようになっています。膜の向こうではなく、はっきりと主人を感じる場のひとつが、分かち合いの会です。そこでは、皆さまの語られる言葉を聞きながら、悲しみのうちに主人を感じます。
今は残念ながら会を開きづらい状態ですが、少しでも早く再会できる日を、願うばかりです。
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